2026年8月20日からNetflixで配信が始まった『災』。香川照之さんが演じる”あの男”の不気味さに引き込まれ、見終わったあとに「結局この男はなぜ殺したのか」「切り取られた髪は何だったのか」とモヤモヤしている方は多いはずです。
実はこの作品、明確な動機が最後まで説明されません。それどころか、男が誰かを殺害する場面すら一度も描かれないのです。
この記事では、作中に散りばめられた手がかりと、監督自身が語った制作意図をもとに、「なぜ殺したのか」という疑問を正面から掘り下げていきます。特に最大のヒントである「髪」のモチーフについては、ラストシーンの意味まで踏み込んで解説します。
※ この記事には、ドラマ版・劇場版ともに結末までのネタバレが含まれます。未視聴の方はご注意ください。
- 香川照之演じる男が「なぜ殺したのか」(結論から先に解説)
- 切り取られた「前髪」が何を意味していたのか
- ラストで映し出される「毛髪の円」が示すもの
- 動機をめぐる3つの説と、それぞれの根拠・弱点
- 監督が語った「答えを出さない」という明確な意図
- 劇場版とドラマ版で、動機の見え方がどう変わるのか
明確な動機は描かれない。それこそが『災』の答え
先に結論をお伝えします。
- 男が人を殺す場面は、ドラマ版・劇場版を通して一度も描かれません。被害者はすべて自殺や事故として処理されます。
- 男は毎回まったく別の職業・別の人物として被害者の日常に紛れ込み、事件後に姿を消します。身元情報も虚偽です。
- 共通する唯一の物証が「切り取られた前髪」。そしてラスト、男の部屋の壁には集めた毛髪が円を描くように飾られています。
- 監督は「人なのか人じゃないのか、殺したのか殺していないのか」という曖昧さを意図的に残したと明言しています。
つまり「なぜ殺したのか」という問いに、この作品は答えを用意していません。理由がないこと自体が、この物語の恐怖の正体です。以下、その根拠を一つずつ見ていきます。
そもそも『災』とはどんな作品なのか
WOWOW発のサイコ・サスペンス
『災』はもともと、2025年4月6日から5月11日にかけてWOWOWプライムで放送された「連続ドラマW」枠のオリジナル作品です。毎週日曜22時、全6話の各話完結形式でした。
その後2026年2月20日に、全6話を大胆に再構築した『災 劇場版』が公開。そして2026年8月20日から、Netflixで劇場版とドラマ版が同時配信されています。
監督は「5月」、民放連賞の優秀賞も受賞
監督・脚本・編集を手がけたのは、関友太郎さんと平瀬謙太朗さんによる監督集団「5月」。制作はWOWOWとAOI Pro.です。
ドラマ版は2025年日本民間放送連盟賞の番組部門で優秀賞を受賞しており、単なる話題先行の作品ではなく、業界からも高く評価された一本です。
主なキャストは、香川照之さん(あの男)、中村アンさん(刑事・堂本翠)、竹原ピストルさん(飯田剛)、宮近海斗さん(菊池大貴)、松田龍平さん(倉本慎一郎)、内田慈さん(崎山伊織)、藤原季節さん(皆川慎)、じろうさん(岸文也)、坂井真紀さん(岡橋美佐江)、中島セナさん(北川祐里)ほか。
香川照之は本当に「殺した」のか?
殺害シーンは一度も描かれない
「なぜ殺したのか」を考える前に、大前提を確認しておく必要があります。この作品では、男が誰かに手を下す瞬間が一切描かれません。
視聴者が目にするのは、男が被害者の生活圏にすっと入り込み、何気ない会話を交わし、そして被害者が死ぬ——という流れだけです。因果関係は示されず、常に「そう見える」という段階で止まります。
死はすべて自殺・事故として処理される
警察が事件性を認めないのも重要なポイントです。どのケースも自殺や事故として処理され、捜査は打ち切られます。唯一、刑事の堂本翠だけが不自然さに気づき、真相を追い続けます。
ここから見えてくるのが、男の”手口”です。直接手を下すのではなく、相手が抱えている悩みや不安の隙間に入り込み、その人自身が破滅へ向かうように仕向ける。だから証拠が残らず、だから自殺に見える。この構造こそが、本作最大の不気味さの源になっています。
男が変える「6つの顔」
ドラマ版で香川照之さんは、各話ごとに別人として登場します。いわゆる1人6役です。回ごとに職業も体格の見せ方も歩き方も変わるため、初見だと同一人物だと気づかないことすらあります。
各話でどんな立場の人物に化けているかを整理すると、こうなります。
| 話数 | 男が扮する立場 | 犠牲になる人物 |
|---|---|---|
| 第1話 | 塾講師 | 受験生 |
| 第2話 | 運送会社の同僚ドライバー | 運送会社の社員とその妻 |
| 第3話 | 清掃現場の新入り同僚 | 清掃員と理容師 |
| 第4話 | 酒屋の店員 | 旅館の支配人 |
| 第5話 | 警察署の用務員 | 堂本の相棒刑事 |
| 第6話 | ガソリンスタンドの店員 | スポーツクラブのインストラクター |
注目したいのは、いずれも「その場所にいても誰も不審に思わない職業」ばかりだという点です。塾講師、同僚、店員、用務員。日常の風景に完全に溶け込む立場を選んでいます。
そして第5話では、ついに警察署の内部にまで入り込みます。追う側の懐に平然と潜り込んでいたという事実は、この男が「どこにでもいる」ことを突きつける、作中でも屈指のゾッとする仕掛けです。
最大の手がかり「髪」——なぜ前髪を切り取るのか
遺体の前髪が、わずかに切られている
バラバラに見える死のあいだをつなぐ、たった一つの物証。それが「遺体の前髪がわずかに切り取られている」という共通点です。
堂本刑事はこの異変に気づき、複数の死が偶然ではないと確信します。ただし「前髪が少し短い」という状態は、捜査上ほとんど何の証拠にもなりません。気づいた人間にしか見えない、極めて小さなサインなのです。
ここに、この作品の狡猾さがあります。髪は物証としては無力なのに、視聴者にだけは「同じ何かがいる」と確信させる。捜査を進める材料にはならないのに、恐怖だけは確実に伝わる。この非対称性が、堂本の孤独をより際立たせています。
ラストで映し出される「毛髪の円」
そして物語の終盤、男の部屋が映し出されます。壁には、被害者たちから切り取られた毛髪の束が飾られている——ここまでは連続殺人犯の「トロフィー」としてよくある描写かもしれません。
しかし『災』が特異なのは、その並べ方です。毛髪は、壁一面に美しい「円(サークル)」を描くように配置されているのです。
円環が意味するもの
なぜ列でも山でもなく、円なのか。ここが本作を読み解く最大の鍵だと考えられます。
円には始まりも終わりもありません。そして円周上のどの点も、中心からの距離は等しい。つまりこの造形は、次の2つを同時に語っていることになります。
- 災いは終わらない……集め終えたコレクションではなく、永遠に回り続けるサイクルの一部にすぎない
- 災いは誰にでも等しく訪れる……円周上に特別な位置はない。狙われた理由も、選ばれなかった理由もない
被害者たちに共通点がないこと、動機が語られないことは、この円環の造形とぴたりと符合します。「なぜあの人が死んだのか」に理由がないのは、災害に理由がないのと同じだということです。
連続殺人犯の「トロフィー」とは決定的に違う
現実の犯罪心理では、加害者が被害者の所持品や身体の一部を持ち帰る行為は「トロフィー」「記念品」と呼ばれ、犯行を反芻して満足を得るためのものとされます。
しかし『災』の男には、その快楽の兆しがほとんど見えません。表情は終始無感情で、達成感も高揚も描かれない。髪を眺めて悦に入る場面すら用意されていないのです。
むしろ円形に並べる行為は、記念というより記録や記帳に近い印象を与えます。誰かが亡くなった事実を、淡々と円に足していくだけ。ここが「快楽殺人犯ではないのではないか」と多くの視聴者に感じさせている理由です。
動機をめぐる3つの説
視聴者や考察サイトのあいだで語られている解釈は、大きく3つに整理できます。それぞれの根拠と弱点を見ていきましょう。
説①:サイコパス・連続殺人犯説
もっとも素直な解釈です。髪の収集というトロフィー行為、虚偽の身元、犯行後の失踪——いずれも連続殺人犯の典型的なプロファイルに当てはまります。
弱点は、実行可能性です。複数の地域で、まったく別の職業に就き、周囲に馴染み、痕跡を残さず消える——これを一人の人間が繰り返すのは現実的にほぼ不可能です。作品もそこを曖昧にしたまま進みます。
説②:災害の擬人化説(最有力)
もっとも支持を集めているのが、この読みです。タイトルの『災』が示すとおり、理由もなく突然人生を奪う”災い”そのものが、人間の姿をとって歩いているという解釈になります。
この説を取ると、これまで挙げてきた不可解な点がすべて筋を通します。
- 殺害シーンがない → 災害は「手を下す」ものではないから
- 動機がない → 地震や台風に動機がないのと同じ
- 被害者に共通点がない → 災害は相手を選ばない
- 複数の職業に化けられる → そもそも人間ではないから制約を受けない
- 毛髪が円を描く → 災いに始まりも終わりもない
弱点があるとすれば、この説は「解釈」であって作中で明示されるものではない、という一点です。あくまで象徴的な読みにとどまります。
説③:そもそも存在しない説
より踏み込んだ解釈が、この男は堂本刑事が生み出した幻ではないかというものです。
理不尽な死を前にして、「理由があるはずだ」「犯人がいるはずだ」と考えずにはいられない。その心理が、不在の犯人像を作り上げてしまった——という読みです。人間は不条理をそのまま受け止められない生き物だ、という指摘でもあります。
この説は特に劇場版で立ちやすくなります。時系列が意図的にシャッフルされているため、男が実在するのかどうかがいっそう怪しく見える編集になっているからです。
監督が語った「答えを出さない」という選択
ここまでは視聴者側の解釈ですが、実は作り手自身がこの点について明確に語っています。
「殺したのか殺していないのか」を残した
インタビューで監督は、男の正体について「人なのか人じゃないのか、殺したのか殺していないのか」という読後感を意図的に残したと述べています。
つまり、動機が説明されないのは説明不足でも尺の問題でもなく、最初から設計された仕様だということです。「答えが分からずモヤモヤした」という感想は、作り手の狙いどおりの反応ということになります。
目指したのは謎解きではなく「足場がおぼつかない感覚」
監督が重視したのは、謎解きの快感ではなく「どこへ向かっているのか分からない」という没入感でした。足場がおぼつかないまま進む不気味さ。それこそが本作で描きたかった恐怖の質だと語られています。
だからこそ、犯人を特定して安心させる展開は最初から選択肢になかった。説明できる恐怖は、説明された時点で怖くなくなる——本作はその原理をそのまま構造にした作品です。
わざとズレた構図、意味のない真正面ショット
その狙いは映像面にも徹底されています。監督は、あえてズレた構図や、物語上まったく意味のない真正面からのショットを用いることで、「日常を不気味にする」手法を採ったと明かしています。
「何も起きていないのに、なぜか居心地が悪い」。あの独特の感触の正体は、演出の側から意図的に仕掛けられていたものだったわけです。
香川照之の1人6役「全ての役にモデルがいる」
この作品を成立させているのが、香川照之さんの演じ分けです。本人はインタビューで、こう明かしています。
全ての役にモデルがいるんですよ。いろいろ考えてモデルを見つけ、その人のモノマネをずっとやって演じていました
香川照之(マイナビニュースのインタビューより)
さらに各話ごとにモデルとの距離感が違うことも語られており、第1話は「全然似てない」、第2話は「似てる」、第3話は「僕だけしか知らない人」、そして第6話は「香川照之さんという俳優のマネ」だったといいます。
最終話で”香川照之を演じる香川照之”を配置するというのは、「この男には固有の中身がない」ことを役者の側から表現しているようにも受け取れます。誰かの模倣でしかなく、素顔が存在しない。災いの擬人化という読みと、見事に響き合う仕掛けです。
劇場版とドラマ版で「動機」の見え方はどう変わるか
劇場版は時系列がシャッフルされている
劇場版は、ドラマ版の全6話を単に短くしたものではありません。同じ物語を別の場所や時間から切り取り、時系列を組み替えて再構築した作品です。
結果として、複数の人生が同時進行する構成になり、「一人の男を追う話」から「災いそのものを追う話」へと重心が移動しています。動機を探す視点そのものが後退し、より抽象度の高い恐怖として立ち上がってくるのが劇場版の特徴です。
見る順番の推奨は、意外にも「映画→ドラマ」
Netflixで両方が同時配信されたことで、「どちらから見るべきか」が話題になりました。公開順で言えばドラマ版が先ですが、監督自身は「映画→ドラマ」の順を勧めています。
音楽を担当したスタッフも同様に劇場版から観ることを推奨しており、その理由として「劇場版の余白にどんな物語があったかをドラマ版で知る作業が楽しい」と述べています。
つまり劇場版で不条理を浴びてから、ドラマ版で一人ひとりの人生を確認していくという順序です。動機を知りたい方ほど、この順番のほうが満足度は高いかもしれません。
結局『災』は何を伝えたかったのか
ここまでを踏まえると、本作のメッセージは次の一点に集約されるように思います。
本当の恐怖には、説明がない。
私たちは、不幸な出来事が起きたとき、必ず理由を探します。あの人が悪かった、あの選択が間違っていた、防げたはずだ——と。けれど現実に起きる災いの多くは、そうした因果では説明できません。
『災』の男は、その「説明のつかなさ」を人の形にした存在です。だから顔を持たず、動機を持たず、逮捕もされない。そして最後には、また別の誰かの日常へと歩いていきます。
ラストで堂本が男とすれ違いながら気づかない場面は、この主題の総仕上げです。追い続けていた本人ですら見抜けないのなら、私たちに見抜けるはずもない。壁に描かれた毛髪の円は、いまも静かに回り続けている——そう突きつけて、物語は幕を閉じます。
まとめ|災の男はなぜ殺したのか、要点整理
最後に、この記事の要点を整理します。
- 殺害シーンは描かれない:男が手を下す瞬間は一度も映らず、すべて自殺・事故として処理されます。
- 手口:相手の悩みや不安の隙間に入り込み、本人自身が破滅を招いたように見せる、というのが一貫した描かれ方です。
- 髪の意味:遺体の前髪がわずかに切られているのが唯一の共通点。物証としては無力なのに、視聴者にだけ「同じ何かがいる」と確信させます。
- 毛髪の円:ラストで壁に飾られた毛髪は円を描いており、「災いに終わりはない」「誰にでも等しく訪れる」という二重の意味を持ちます。
- 動機の3説:①連続殺人犯説(実行可能性に難)②災害の擬人化説(最有力)③堂本の幻説(劇場版で立ちやすい)。
- 作り手の意図:監督は「人なのか人じゃないのか、殺したのか殺していないのか」を意図的に残したと明言。答えが出ないのは仕様です。
- 見る順番:監督の推奨は公開順とは逆の「劇場版 → ドラマ版」です。
「なぜ殺したのか」に納得のいく答えを求めて本作を見返すと、おそらく永遠に着地しません。けれど答えがないという事実に気づいた瞬間、この作品はもう一段階怖くなります。それを味わえるかどうかが、『災』という作品の楽しみ方の分かれ目なのだと思います。
※ 本記事は2026年9月5日時点の配信内容および公開されているインタビュー等をもとに、筆者の解釈を含めて構成しています。作品の解釈は視聴者に委ねられており、ここに示した説はいずれも公式に確定したものではありません。

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